歴史

歴史

1500万年前

屋久島の原形が形作られる
中生代白亜紀の頃までは屋久島は海底にあった。中生代の終わり頃の地殻変動に伴い海底に亀裂が生じ、その裂け目に花崗岩マグマの貫入活動があり、海底の隆起が始まったと言われ、さらに新生代になって造山活動がさかんになり、海面に岩塊の一部が現れ、屋久島の原形がつくられたのが1500万年前のことだと言われている。


7000年前

屋久島に人が住むようになる
屋久島に人が住むようになった時期は明らかではないが、島内数箇所に分布する縄文・弥生遺跡から、少なくとも今から約7000年前には既に人々の生活があったと言われている。


大業3年(607年)

屋久島の名が歴史上初めて登場する
屋久島は、中国統一王朝隋の正史「随書」に歴史上初めて登場する。
大業3年(607)第二代煬帝は、「異国の風俗を調べるため兵を東海に派遣したが、言葉が通じないので、地元の人を一名連れて帰り、翌年再び派遣したが、従わないので布甲などをとって帰った。その折り、倭国の使者が来朝していて、これを見て、『それは夷邪久(いやく)国の人が使っているものだ』と言った。」と記録されている。この倭国の使者とは、遣隋使の小野妹子であろうと言われているが、この「夷邪久(いやく)」国が屋久島である。


推古24年(616年)以降

日本の歴史に集中的に登場
推古24年(616年)以降、7世紀前半日本の歴史に「掖玖」・「夜句」・「邪久」として登場するが、この時期集中的に歴史に登場することになる背景は、隋煬帝の領土拡張策に基因するものと思われる。


天平勝宝5年(753年)

天平勝宝5年(753)12月12日、鑑真が屋久島に来日した。
日本の政治・文化に大きな影響を与えた鑑真・大伴古麻呂・吉備真備を乗せた遣唐使船第二船、第三船が屋久島に来日する。
着岸した地は記録にはないが、屋久島の12月の気候は、北西の季節風の強い時期であり、激しい風雨を避け、緊急避難的に寄港したとすれば屋久島南部であろうと推測される。また、原・尾之間には、今もそれを類推するような伝承地名などが残されている。


平安時代

屋久島が近衛家の荘園に
屋久島は近衛家の荘園であったと言われている。平家滅亡後、平家落人(おちうど)にまつわる伝承・地名が今も残っている。


16世紀

屋久島が種子島領に
16世紀は、全国的に戦国の時代。屋久島も戦場となる。天文12年(1543)は、種子島に鉄砲伝来の年であるが、この年3月、大隈の禰寝(ねじめ)氏と種子島氏との戦の結果、屋久島は禰寝氏の領有するところとなった。


天正14年(1586年)

京都方広寺建立に屋久杉が利用される
豊臣秀吉の発した京都方広寺の大仏殿の建立用材調達令は、屋久島を漁業や航路上の要地としての位置付けから、屋久杉を含めた森林資源の島として注目させることになる。このことは、屋久島の領有に関しても影響を与えていくことになる。


文禄3年(1594年)

島津氏の領地となり、森林資源の厳しい統制が行なわれる
文禄3年(1594)、薩摩・大隈・日向国の太閤検地が実施され、藩内でも大規模な召し移しが行なわれたが、文禄4年、屋久島・種子島・口永良部島は、種子島氏より島津一族の領有するところとなり、「屋久島置目」が出され、これにより、厳しい森林資源の統制がしかれるようになる。


慶長4年(1599年)

領主が島津氏より種子島氏へ
慶長4年、領地替えにより、屋久島・口永良部島・種子島の領主は、島津以久より種子島氏になったが、その際、屋久島・口永良部島は、島津氏の借地としていたが、慶長17年(1611)、島津氏が代官中村与左衛門を任命したことにより、屋久島・口永良部島は、以後、名実共に島津氏の直轄地となった。


寛永17年(1640年)

泊如竹の登場で屋久杉の一般活用が始まる
屋久島安房の出身、泊如竹(とまり・じょちく)は、京都の本能寺・鹿児島の正興寺での修業の後、藤堂高虎、琉球王尚豊に仕え、寛永17年(1640)頃、島津第19代当主光久に侍読として仕えることになったが、屋久島の森林資源、中でも屋久杉の活用について献策したと言われ、これを契機に、屋久杉の一般的活用が始まったとされている。

屋久杉について:
古来、屋久島の森はすべて神の山で、特に奥山は女人禁制の聖域でした。江戸時代のはじめまで島の人々は屋久杉を神木としてあがめ、伐採することはめったにありませんでした。


宝永5年(1708年)

イタリア人宣教師シドッチが屋久島に潜入
シドッチ神父の屋久島潜入は、屋久島統治機構の改革を促すことになる。
また薩摩藩では、シドッチ上陸を機に外国船の監視の意を注ぎ、「異国船番所並びに異国船遠見番所」が宮之浦・長田・栗生におかれた。この統治機構は明治まで続いた。

シドッチについて:
シドッチは上陸した際、紋付き袴で腰に大小をさしていたといいます。しかし見るからに異国人。シドッチを発見したお百姓の藤兵衛さんはさぞ驚いたことでしょう。言葉が通じない中、身振り手振りで意を察して、宮之浦の屋久島奉行所に案内したといいます。そこでシドッチは食事を与えられ、後に屋久島から江戸へ送られ、小石川の切支丹屋敷に収容され、新井白石から取調べを受けます。この時シドッチによって語られた世界事情が、その後、「西洋紀聞」として世に送り出され、日本の眼を開くことになります。


明治2年

奉行制の廃止
この年の2月、川上助八郎を最後の屋久島奉行として奉行は廃止され、明治5年には各村の庄屋も副戸長と改称される。


明治37年

国有山林下戻請求の行政訴訟を提起
明治12年の「地租改正」や、明治22年の「官民有山林境界踏査」の結果、藩政時代から各大字の共有山林として利用してきた山林のほとんどを官有林とされ、日常の薪炭材もままならぬ状況となった島民は、明治23年頃より山林引き戻し願いや山林誤謬訂正願・官有地御下戻願などを政府に提出し続けたが、いづれも不許可となったことにより、明治37年(1904)、上・下屋久村は、農商務大臣に対して、国有山林下戻請求の行政訴訟を提起した。
しかし、16年余りにわたる訴訟も国の勝訴となり、屋久島の山林のほとんどは国の所有するところとなった。この結果、島民は、燃料の供給、食糧の補給など、生活資料に窮乏を告げているとして、民有隣接国有林の処分等陳情、嘆願や種々の運動が行なわれた。


大正10年

「屋久島国有林経営の大綱」が発布される
このような地元の動向を念頭に入れ、政府は大正10年(1921)、「屋久島国有林経営の大綱」(屋久島憲法)を発布し、屋久島国有林は、地元民生業の状態に鑑み、地元村ならびにその住民将来の発展の為に資するためとして、前岳七千町歩につき特別作業班を設け、特に地元住民の利益となるべき取り扱いをする。


大正12年

森林軌道や沿岸林道(現・県道)の開発が始まる
国有林の開発が開始され、小杉谷に至る森林軌道の敷設、島内大字を結ぶ沿岸林道の建設が開始され、沿岸林道(現・県道)は昭和5年に完成した。

屋久杉について:
林業は島の最重要産業となり、屋久杉は島の経済を支える資源として盛んに運び出されるようになりました。

小杉谷事業所について:
標高660メートルの小杉谷に伐採のための事業所が開設されました。多いときには500人もの人達が暮し、小中学校もありました。しかし昭和30年代の集中的な伐採を最後に、1970年(昭和45年)には事業所が閉鎖されました。縄文杉を訪ねるルートは、無人になった小杉谷を通ります。


昭和20年

第二次世界大戦・空襲・疎開・食糧難の時代
昭和20年、第二次世界大戦は屋久島にも空襲をもたらし、3月以降の空襲により、多くの人家が焼失、爆死するものもあり、住民の疎開が始まる。戦後、引き揚げや復員などの結果、急激に人口が増加し、食糧難の時代を迎えることになった。


昭和30年頃

プロパンガス・電気の普及
昭和30年代後半から過程燃料もプロパンガスが普及され、また、昭和24年中間の自家発電以来、各家庭はランプより電灯の世になっていったものの、低電圧のため何かと不便をかこっていた電気もその後送電が安定し、急速にテレビ・冷蔵庫などが普及した。


昭和41年

縄文杉発見される
地元民により発見されたこの我が国最大の杉、翌年元旦の南日本新聞の一面を飾ったことから、広く知られるようになる。 


昭和45年

急激な人口減少が始まる
昭和30年代後半から始まった我が国の高度経済成長に伴う若年労働力の都市転出と島内産業の低迷があいまって、急激な人口減少が続くようになる。


平成5年

世界自然遺産に登録される
木材需要の低下と自然保護の気運の盛り上がり、さらに伐採基地周辺の木材枯渇から次第に伐採は行われなくなる昭和41年「縄文杉」の発見なども影響し、昭和50年代には完全に伐採禁止、平成5年12月にはユネスコ世界自然遺産に登録された。


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